昭和五十七年一月三十一日 朝の御理解
x御理解第八十八節 「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
信心をさせて頂きますと必ず喜びの芽が出る。これは、あの初心の方、初めてお参りをして来た方達が一週間もお日参りを続けておると、必ず人相が変る位になりますね。ここに助かる手立てがある。こんな話は初めて聞いた。成程、喜ばれなければ、というような事がわかってまいりますとね。今迄自分が難儀と感じておった事やら色々な事が本当に、こう、少しわかりかけてくる、だけでも、いうなら心がほぐれてくる、人相が変る、位にあるけれども、それが又何かの拍子に、まあ、踏みにじったりするような事で、喜びの芽をまた摘み取ったりするような結果になりまして、まあ堂々回りをするわけですけれども。
どうでもこの、喜びの芽というか、育てさせて頂く、という事はどういう事に心掛けたらよいか、ま、人に悪い顔を見せぬようにというような教えでありますが。昨日、研修の後に、いや研修の前に毎月この、やつなみ、という御本を送って頂きます。鶴見教会という大変、ま、発展の一途をたどっておられる。それで沢山な病院も経営しておられる、というような、ね。非常に異色な教会ですが、鶴見教会という、鶴見教会の、ここにも二回ほど見えられた事がございます。
が、常に思う事という毎月、その、自分の、いろんな、常に思う事を、ま、書いておられるわけですが、今年の先生の生き方というか、これはこの、ありがとう運動というのを起こしたい。もう自分に信心があろうがなかろうが、ここには様々な信心のない人達も、ま、集まられるような、色んな会が沢山あるです。そりゃ四階建てのこんな素晴らしいお教会ですからね。そこには色んなあのう文化活動なんかする方達の集いも出けておるわけです。
ですから兎に角もうどんな事にでもありがとう、ありがとうございます、を言う運動を起こそう、と。自分を芯にして、自分に関わり合いのある人が全部、ありがとうありがとうを言い合える運動を起こしたい、というような事が書いてございましたが。一切を私は成程、どんな場合であっても有難う有難うとこう、有難うございます、という腹を決めたら、喜びの芽を切らす事も枯らす事もない、と思うですね。
だから喜びの芽が育つという事は、結局有難う不足が枯らしてしまうのであり、踏みにじってしまうような結果にすらなる、という事であります。皆さんもどうでしょうか。本当に一つのもう何もかにも有難い有難い、有難うございます有難うございます、例えば最近は、風邪引きで、ね。どこも、一家全滅といったような所もあるようですね。それでも、ね、やっぱり、よくよくわからして頂いたら、有難うと御礼を申しあげねばならない。
これも泉尾教会の教会長であります三宅先生のお言葉の中には沢山出てくるのは神願有難し、という言葉です。ね。一切を神願有難し、ね。これは鶴見の先生の、ただ何事にも有難う有難う運動を起こさしてもらうその。なぜありがとうを言わねばならんのか、と。なぜありがとうありがとうでいかなければ、いうならば、広がりに広がるようなおかげになってこないのか、という事を極めておられるお言葉だと思うですね。神願有難し、ね。
それこそ風邪を引いておっても、それがよくよくわかると、神願の現れである、とすると、です、ね。やっぱり神願有難し、御神願有難うございます。もう泉尾ではこれが、ま、いうなら合い言葉のように使われるわけですね、ね。ですからね、その、有難いという人に悪い顔を見せぬように、という、ま、お言葉ですけれども。心に有難うございます、又はその意味が、本当にわからして頂くようになって、御神願有難し、というような心の状態が開けてまいりましたら、人に悪い顔を見せなくてすむんじゃないかと思うんです。それをなら又、合楽理念で申しますと、ね。一切神愛だ、ね。為にはいよいよ成行きを大事に尊ばして頂く、といったような内容になってくるわけですけれども。
兎に角、まあ例えば、バスに乗り電車に乗り、ね。それこそ履物一つの上にでも、ありがとう、という運動とはそういう事だと思うです。ね。お手洗いに行ってもお便所を拝ましてもらう、ありがとう、こりゃもう言葉だとかだけではない。物、全ての、自分の周辺の全てにありがとうございます、という運動、ね。運動とまではいかんけれども合楽ではそれを、ま、なぜありがとうを言わねばならんのか、という、ま、一つの原理を説いてあるのが合楽理念だと。だから合楽理念が実験実証でけて、有難い有難いという事がいわゆる、あの、神願である、という事。神願成就の。
例えば昨日の御理解を頂きますと、ね。右と願った事が左、左と願った事が右になっても、ね。私の願いが成就致しませんけれども。神様の願いが成就しておるんだとしたら非常に大きな喜びが頂けるような信心です。ね。いわゆる神願有難し、という事になるのです。昨日、私は研修の時に、あゝここん所は一口付け加えとかなければいけなかったなあ、というて、まあおそらく塗板には付け加えてある、と思うんですけども。
四神様のみ教えを申しましたよね、ね。不浄というけれどもこの方の道の不浄というのは願った事が成就しない。成就せん、という事が不成じゃ。その不成をお嫌いになる、という四神様がおっしゃておられるのだけども、なら、合楽で頂きますと、不成そのまま神願成就の現れである、というふうに説きましたでしょう、ね。自分の願いが成就しない。
右が願って左、左を願っても右、といったような、丁度、あの、つつうろこを使うようなもんだ、ね。つつうろこっで御承知でしょうか。いろんな、あの、御簾のようなものを編む時にはこうやって、ね。あれがつつうろこっていうのです、ね。右に行ったかと思ったら方一方は左の方へこう行っとる、前、後になっていく、ね。いうならば、それこそ鼓の千鳥掛けじゃないですけれどもこう千鳥掛けになって、×の字×の字になっていくけれどもです。ね。それはいうなら、一つの御簾なら御簾がこう編みあげられていっておる時なのだ、というのです。つつうろこのよう、ね。
いわゆる神願が成就しておる時だと。ところが四神様は、成就せんという事が、その事が不成じゃ、とおっしゃるのは、ね。これは信心が足らずに不成の事を神様はお嫌いになる、であってね。例えば私なりに一心におすがりして一心に御祈念もさせて頂いておる、お参りもさして頂いておるのにもかかわらず、右が左、左が右になる時こそが神願成就の時である、という、そこん所をね、ちょっと言い訳をしとかんといけないなあ、というて、でないと。四神様は不成の事が、成就せん事が不成だ、と。
合楽では成就せん時には、もう神願が成就している時だと、いうふうに言うけれども、それは私共の信心が出けずに、足らずに只お願いします、というばっかりで、いうなら成就しない、のはこれは信心が足りないで成就していないのだから不成、だから神様はお嫌いなさる。もちっと頑張れば成就する、事を成就しないで神様を例えば恨むようなものもある、とおっしゃるような事の結果になる、その事が不成だ、と。
ま、これは昨日の御理解に付け加えたわけですけれども、ね。ように例えば神願が成就しておるのだ、と。様々な嫌な問題とか、損になるような問題やら、例えば起こってもです。いわゆる神願有難し。まあ、桜井源吾先生が言うておられるのは、どんな場合であっても有難う有難うと言わしてもらう運動を起こそう。泉尾の先生は神願有難しとして受けていこう、ね。それはその、神願である、という。
いうならば、こういう訳で神願が成就しておるのだ、と、ね。ですから一切が神愛なのだ、というふうに合楽では、ま、説くわけですけれども。そういう大変な事を段々わかっておるのにもかかわらず、有難う、有難う、が言えない、というところに人に渋い顔やら嫌な顔を見せなければならないのじゃないでしょうかね。ですから、わかってもわからんでも、ま、兎に角、まあ、自分の心の中に一つの運動を起こす。
兎に角、一切をありがとうありがとう運動を自分の心の中にそういう姿勢というか、ね。この方の道は、ね、喜びに喜んで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせん、とおっしゃる。ただ喜こんでます、というのじゃない。もう喜びに喜んで、とこう言われる。ですからその、喜びに喜んで。なぜ喜ばねばならないか、というわけをわからしてもらうと喜ばねばならない事に今迄は不足ばっかり言うておった、腹ばっかり立てておった、という事になるのです、ね。
だから、ここの本当の所がわからしてもろうて腹をたてる段じゃない、渋い顔をする段じゃない。それこそ御神願有難うございます、と御礼を申しあげねばならないという事がわかってくるのですから、ね。いよいよ、ま。桜井源吾先生じゃないけれども有難う運動が徹底する、という事が合楽理念の徹底という事にもつながる、と思うですね。どうぞ